貴卑コラム/書評 移民I 松本浩治
2006年12月10日
「処女作に、すべてがある」とは、ある対談での故・開高健の発言だった。この言葉を思い出したのは、サンパウロ新聞の松本浩治記者が、写真集「移民I」を出版するという報道を、サンパウロ新聞紙上で読んだ時である。「もしかすると、IIがあるのかな。何と読者をなめたネーミングだろうか。苦渋の決断で掲載を見合わせた写真があることは認めるにしても渾身の一作であるべきで、それを意味するネーミング、つまり『I』などといった表現は排除すべきではなかろうか」。それが、第一印象だった。
その、出版記念の祝賀会が9日夜、サンパウロ市内某所で行われた。当然、出席。中盤でその「移民I」を松本記者から手渡しで頂く。早速、パラパラと頁をめくる。すばらしい「皺」の数々が、松本記者独特の視線で捕らえられている。故人となられた方も多い。「記録できるものを、記録できるうちに記録しなければならない」とは、私たちが新聞記者としてブラジルへ移住した当時からの、新聞関係者の共通認識だった。松本記者は、地道にそれを実践されておられたのだ。
松本記者は、私がブラジルに移住したのと同じ1994年、ブラジルに移住して日伯毎日新聞社(現在のニッケイ新聞社の前身)に入社された。当時の日伯毎日新聞の日本語編集部は、場所こそ現在のニッケイ新聞編集部と同じながら、見栄えも含めて現在とは全く異なる雰囲気だった。応接用のソファー、各記者が使用する木製の机。当然、パソコンどころかワープロすらなく、原稿は原稿用紙とボールペンの手書き。そして何よりも、本来なら商店の商品置き場、新聞社でいえば新聞置き場となるはずの中二階を日本語編集部が使用しているという雰囲気が、ハイパーインフレによるブラジル経済の疲弊感のみならず、日本語新聞という斜陽産業が実体を持ってひしひしと伝わってくる有様だった。こうした事情は他社でも同様で、私が勤めたパウリスタ新聞も、ひびが入った汚れたガラスを窓にはめ、応接室のソファーは人工皮革のカバーがひび割れているという状態だった。
これらの日本語新聞編集部がひしめいていたリベルダーデ区は、かつて日本人街と言われていたが、戦前の一世の現役引退に合わせるかのように、時代からも取り残されていった。当時はようやく中国系や韓国系の移民の進出が目立って東洋街と呼ばれ始めた頃だったが、まだ過渡期であり、現在のように「東洋街」という特色を出すには至っていなかった。日系以外の東洋系移民が足を運ぶには、まだ、魅力が少なすぎたのだ。しかも南米随一の経済地域、パウリスタ大通り近辺に日本食料理店の新規出店が相次いだこともあり、いかにも大衆食堂風の古臭い店構えだったリベルダーデ区の日本食料理店には、日本からの駐在員も寄り付かなくなった。時代から取り残された日系人だけが、この地域を徘徊している。そんな殺風景な時代でもあった。日本人街だった頃のリベルダーデの雰囲気を、今は無くなってしまった池田食堂のフェイジョアーダやこけし食堂のマカロナーダの味とともに、懐かしく思い出す方々もおられるかもしれない。そういう「日系人たちの時代の息遣い」を、本書は発散している。
時代は移り、人も移る。もちろんこれは、新聞社があるリベルダーデ区のことではなく移民のことを指しているのだが、移民とはまさに、時間と土地を移ろい来た人々のことである。空間的な意味だけにおいて住処を移った人を指すのではない(また私は、松本記者と違って新聞社を辞した)。私たち移民一世のバイタリティーの秘密は、実はそこにあるのではないかと私は思っている。それは移民が、「未来がどうなるかはわからない」という絶対的で絶望的な事実から希望をつむいできた人たちだから。その希望とは、「いっちょ、やってみるか」という山師的発想であったかもしれないし、苦境の中で鍬を振り下ろしながら「日本が勝ってくれる」と念じることであったかも知れない。あるいは、家族の安寧な暮らしや、子供たちの将来の成功だったかも知れない。したり顔で想定の範囲内と言い切る生き方など、移民とは無関係の世界だ。
つむいできた希望の数だけ、皺が刻まれる。人間とは本来、そういう時間を背負った存在だ。本書に掲載された人たちがその「写された瞬間」だけを生きていたのではないことは、彼らの表情が雄弁に物語っている。本書のタイトル「移民I」の「I」も、単なるローマ数字なのではない。そこに掲載されている人たちの皺同様、本書の皺なのだ。すばらしい写真集に乾杯。
※購入その他、本書に対するお問い合わせは、サンパウロ新聞社または松本浩治記者の公式HPからお願いします。
岡村淳さんの書評も、ぜひどうぞ。私のひねくりとは違う、正攻法な、すばらしい内容です。
- 素晴らしい書評をありがとうございました。 -- 松本? 2006-12-10 (日) 23:58:45
- ブラ妻も、たいそう気に入っておりました。 -- はっちー? 2006-12-11 (月) 10:12:28
- 美代評を読みつつ、リベルダーデ邦字新聞社に絞り込んで掘り下げたらもっと面白かったかな、と思いました。 -- 岡村淳 2006-12-11 (月) 11:39:08
- いやー、厳しい。実は、途中で写真集に圧倒されて投げ出しちゃいました。本当に、すばらしい写真集ですね。 -- はっちー? 2006-12-11 (月) 12:23:28
- 一行じゃ論じるのも失礼かと。ミクシィとか河岸を変えていきますか。 -- 岡村淳 2006-12-11 (月) 13:47:35
- ミクシ童貞なので、岡村さん、よろしく。 -- はっちー? 2006-12-11 (月) 17:38:44
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