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ブラジルを見つめ続ける記録映像作家 − 岡村淳さん

 

2002年10月25日
サンパウロ市在住 美代賢志

 

 

 記録映像作家の岡村淳さんは、ブラジルの自然から社会問題、日本人移住者までを独自の視点で捉える活動を続けている。「必要悪だと思っていたスタッフや大きな機材などから開放され、新しい視点と絶好のタイミングで映像を記録することが可能になった」と、岡村さんは言う。それもそのはず、彼の武器は小型のデジタルビデオである。こうした最新テクノロジーが、岡村さんの情熱を支えているのだ。「日本のテレビ関係者からは無視されることが多い」岡村さんの作品は、逆に大学や国際交流の現場で絶大な支持を受けている。単なる映像の美しさよりも、記録すること、伝えることを大切にする岡村さんの視点と行動力。その岡村さんに、活動の原点を聞いた。

熱く語る岡村さん(撮影:美代賢志)

美代 まず、ブラジルに移住を決意したきっかけは?

岡村 大学を卒業して1982年、日本映像記録センターに入社しました。ここで番組ディレクターとして「すばらしい世界旅行(日本テレビ)」や「知られざる世界(日本テレビ)」の中南米取材をおもに担当しました。そうすると、1回につき半年ぐらいは現地に滞在するわけです。日本記録映像センターは16ミリフィルムを原稿用紙のように使うことで有名でして、30分番組に10倍近いフィルムを使う。当時、フィルムだけで200万円ぐらいでしょうか。しかも1ロール6分程度ですから、入念な打ち合わせや事前調査が不可欠。まさに現場主義だったんです。

 最初に手がけたのは「ナメクジ」で、ブラジルではなかったですが、それだけで3週間も現地に滞在しました。ブラジルなら、インディオの村で1か月過ごしたりすることもありました。そういう取材を重ねていると、色々なものが見えてくる。いっそのこと、こちらにいて記録したいという気持ちになったわけです。フリーになったのは87年です。


美代 ブラジルに関して、もっとも感激されたことは何でしょう?

岡村 吸血コウモリですか。哺乳類でありながら、同じ哺乳類の血液だけで生きている。自然の精緻さ、洗練された美しさに魅了されました。それだけではなく、このブラジルには作家の開高健氏が紹介されたような2メートルのミミズとか、ほかにも漁師が魚網を広げると魚を追いこんでくれる野生のイルカとか、とにかく驚くことがいっぱいです。


美代 大きな意味では自然ということですが、岡村さんの場合、ちょっと普通の人とは視点が違う。最初は、日本人移住者を扱うということはなかったのでしょうか?

岡村 日系人はだいぶ後になってから。今は、移民と自然、社会問題が3本柱です。私には演出能力がありませんから、いずれも実際の素材に語らせるという手法です。ただし日本のテレビで放送されると、素材が何であれ佃煮になっちゃうようなところはあります。元が何であっても同じ味みたいな。個人的には、もとの素材を味わってもらいたい。ひとりで製作するようになってからは、その部分でこだわることが可能になりました。


美代 そのきっかけは何でしょう?

岡村 朝日ニュースターというCS局で、プロ、アマを問わないさまざまな人の手によるドキュメンタリー番組の企画がありました。たまたま知り合いから、どうかと言う話しがありまして。そこで私も家庭用のホームビデオでやってみると、これがなかなか面白いものができる。それまで大勢のスタッフや重い機材は必要悪だと思っていました。その足かせから開放されてフットワーク良く取材できるようになった。目から鱗が落ちたといいますか、この利点は大きいですね。同業者からは「そんなアマチュアの機材で…」などと言われたり、あからさまに無視されたりもしていますが(笑い)。

 私など大学を出てすぐこの世界に入った若造ですから、スタッフの世話も含めて大変でした。おじさんカメラマンから、箸の上げ下ろしまで注文つけられるような感じですか。取材が終わったら夜の案内とかもありましたし。それに、せっかくこちらが取材相手と良好な関係を築いていても、二日酔いのカメラマンが顔をしかめて「よっこらしょ」とカメラを構えた途端に、取材相手がさめちゃったことも経験しました。その点、ひとりであることの利点は大きい。取材で遅くなっても、ひとりなら「泊まってゆけば」と声をかけてくれますし。そうして呑みながら話しをしていると、昼間に聞けなかった面白い話がポンポン出てくる。そうすると、「いやぁ、そういうの聞きたかったんですよ」と、カメラを出して記録できる。ライトをきっちり焚いて撮影すれば美しいでしょうが、不自然でもあります。今のアマチュア用機材は、暗くても自然光で何とかなります。その方が自然な記録ができるとすれば、それが最善の方法だと思います。


美代 ブラジルでの失敗談などありますか?

岡村 人生そのものが失敗みたいなところはありますね(笑い)。大きなものでは、マットグロッソ州の岩絵の紹介ですか。日本のある女性に頼まれた90年代初めの放送番組ですが、結局、誰を傷つけるわけでもないと思って脚色も交えて紹介しました。その女性が現地に2度来ただけで何度も通っているとか、そう言うことですが。ところが、これを見てぜひ現地に行きたいという日本人が出てきまして。いっぽう現地は、遺跡の観光地でもなければガイドがいるわけでもないんです。それで私は「考古学の発掘などがやりたければ日本でもできるし、日本で経験を積んでからでも遅くはない」と説得したんです。だけどその女性は、自分が主役の番組がきっかけですので喜んじゃって、行きなさい!みたいな事になってしまって。結局、私の知っている限りでは、その日本人が現地で強姦未遂のような事件まで引き起こしました。それ以来、自分の責任の取れないようなことは止めようと。その反省から、96年に「発見! 謎の古代遺跡群 アマゾンの女インディ・ジョーンズ(NHK BS2)」を発表したときは、岩絵の場所が詳しく分かるようなことはしていません。それにいざ行きたいとなっても、いろいろな方面にお伺いを立てるような関所を設けました。

 あと、「大東亜戦争は日本が勝った! ブラジル最後の勝ち組老人(東京メトロポリタンTV=96年)」では、出来上がった番組に老人は大喜びでしたが、日本の親戚に放送されたテープを送ったところ、甥御さんから受け取り拒否ということで返送されてきました。日本の親戚が嫌な思いをすることがあってはいけないと。相手の尊厳について考えさせられた取材でした。


美代 2001年6月23、24日に愛知芸術文化センターで行われる「NAGOYAアジア文化交流際」にゲストとして参加され、152分の大作「ブラジルの土に生きて」の上映が決定しました。4年の歳月をかけて取材されたということですが。

岡村 なぜこんなに長いんだという人には、少なくとも90年の歳月を生きてきた人に対して敬意を払っていただきたい、と言いたいですね。それだけのものを言い尽くすには、これだけの時間が必要だったと言うことです。その意味では、テレビでの放送は念頭にありません。テレビの場合、ご飯を食べながらチャンネルをいろいろと変えながら見るわけです。そうすると、ぱっと見て「なんだ、こんな年寄りなんか見たくねえや」で終わりでしょ。先ほども話しましたが、相手の尊厳に敬意を払ってもらうということが難しい。もちろん私もプロですから、30分番組でと言われれば30分に編集します。ですが、私が本当に伝えたいことを、それに積極的に興味を持つ人に見てもらいたいということです。

 この作品は、90歳になる一世老夫婦とその家族の交流を描いたものです。今の日系社会では、あまり自分たちのルーツを気にしない。しかしこれから5世から7世へと世代が進むにつれて、オリジナルなものを知ろうとしても分からなくなっている可能性が非常に高い。ですから、これを記録しておきたかったというのがあります。放送のためではありませんから、相手のペースに合わせて記録することになります。結果として4年、かかりました。


美代 一方で、MST(土地なし農民運動=旧来からの大土地所有制の改革を実力行使で行おうとする、土地を持たない農民の運動)といったブラジルの社会問題も取材されています。取材では、銃弾が飛び交い、かなり危険な状態もあったと聞きますが。

岡村 このような取材は本来なら、ブラジル人がやるべきでしょう(笑い)。法律や歴史的背景など、私などでは分からない部分も多い。ただ、ステレオタイプではない実際の農民たちの姿を見てみたいという気がありました。生命の危険を共有し、一緒に暮らして分かる感動も多かったですね。農民たちの多くは人が良いばかりに、ドロップアウトしてしまった人たちでした。いっぽうで才能も技術もある人たちが金銭にも名声にもこだわらずに、そういう社会的な弱者のために命懸けで尽くしていることを知り、そうした自分自身の感動を伝えたかったわけです。

 実はこの企画は、日系社会への当てつけとして始めたんです。つまり、入管法の改正がなければ、日系人もその中にいるはずです。「日系人もいたけれど、出稼ぎに行ってしまった。帰ってくると我々のことなど、鼻にもかけない」という声はよく聞きました。一方で、日本に来ている日系人と話していると、「ファベーラ(貧民窟)ばっかり日本に紹介しているのではないでしょうね」などと言われる。もう少し自分たちの国について心を寄せて欲しいという気持ちですね。


美代 岡村さんの企画と視点は、どのように生まれてくるのでしょうか?

岡村 ブラジル人ジャーナリストとしてはもっとも高名な、セバスチャン・サルガドへのあこがれというのはあります。彼の作品の影響もあって、土地無し農民運動に関わろうと思ったわけです。私自身はこれまで映像表現に携わってきて、天職だと思っています。そして映像の記録や表現として実際に何ができるのか。そこが出発点です。その問いに答えて発表してゆくことは、フリーの映像表現者としての責任だと思います。


岡村さんへの応援メールはこちら [jun-ok@nethall.com.br]

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