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「ラスト サムライ」な邦字新聞社

2004年1月23日

サンパウロ在住 美代賢志

 ブラジルの日系人で勘違いをする人はウヨウヨ出てくるだろうとは思っていたが、まさか邦字(日本語)新聞社が大々的にその勘違いぶりをPRするとは思っていなかった。が、よく考えれば邦字新聞は、少なくとも私がブラジルに来た90年代半ば以降、こうした勘違いの道を邁進してきたという側面があったかも知れない。何がとて、つまりは映画ラスト サムライのことだ。

 まぁ、まずはゆっくり、「社説・我々も最後の『侍』に、日本語普及に情熱をかけて」と題されたこのページをどうぞ。

 本当のことを言えば、サンパウロ新聞は購読しておらず久しぶりにオンラインで拝読して、私はビックリした。読者の皆さんはいかがだろうか。勤めた経験のない、つまり身内とはいえないサンパウロ新聞のことをとやかく取り上げるのは気が進まないが、この文章にアクションは起こさねばならないだろう。以下、その辺の気持ちを察して読んでください。

 ま、「武士道、のようなもの」が好きな人は、サンパウロ新聞社の人間に限らない。私が勤めていた別の邦字新聞社でも、「本当にお前は大阪商人だな。いちいち考えず、男ならまっすぐ、闇雲にでも突き進んだらどうだ。もっと若者らしくしろよ」と、言われたことは多い。そう、まるで鉄砲玉に対して刀をかざして突進した勝元のように。そして、私の返事は決まっていた。「死にたきゃ、勝手に1人で死んでくれ。そしてその想いを胸に抱きながら、棺桶まで持っていってくれ。まったく、俺は死ぬから後は知らねぇってのは、楽な生き方だよな」。

 自己の理想を追求し、その理想の継続が困難だと悟った時、碁盤をひっくり返すように全てを壊して終わらせる生き方。その生き方に陶酔している本人はともかく、巻き込まれたほうはどうだ? 武士という非生産階級を支える農民や職人といった生産者たち。理想のために、知略を尽くすことなくただ、突進して果てる人たち。通常、非生産者というのは生産者を保護することで、社会的なバランスを保っている。だが、勝元は別に、村を守るために立ち上がったわけじゃない。彼の清い生き方に、ある種の感銘を受ける部分があるのは認める。しかし、この映画が描く「清さ」とは、所詮「作り物(武士の清さではなく映画を感動的にするための清さという意味)」じゃないか? なぜ勝元は、大勢を巻き込んで死ななければならなかったのだろう。理想的な武士の生活を追求する生き方は、生きてなお訴え、残すことはできたのではないのか? そして実際、残すことができたからこそ、今でも多くの日本人が「現在も日本人の心に存在するもの」として武士道を語ることができる。

 サンパウロ新聞の社説は、ラスト サムライの原理主義的部分に共感して引き合いに出しつつも、「では、邦字新聞が本来求めていた理想を維持しているのか?」という「新聞社の原理主義的部分」に触れていない。書き手も、そしてもちろん、この原稿の掲載を許可した編集責任者も、そんなことは考えていないのだろう。何しろ、タイトルからして「討ち死に覚悟の海外の日本語新聞社=日本語普及団体」である。内容は、推して知るべしか? いやいや、読めばわかるのだが、実際の論はちょっと違っていて、「新聞発行の継続(=海外における日本文化の普及)に命をかけてる。日本のみなさん、日本文化の原理主義を維持し普及さそうと努力している(ジャーナリズム本来の姿を維持しているというのとは違う)ブラジルの我々の意見に耳を傾けろ!(で、金銭的に援助もしてね)」ということのようだ。

 海外の日本語新聞の灯を絶やしてはならない、という考えには私も異論はない。ただ、私と意見が異なっているのはおそらく、残したいのは「新聞というガワ」か「海外の日本語ジャーナリズム」かというところだろう。私は、「日本語教育の日刊テキストになってもいいから、日本語新聞を残せ」とは思わない。むしろ、インターネットという、プロとアマが同じ土俵で報道を行うことができる世界が広がったことで、「記者が所属する企業やその肩書きに重みのある情報」ではなく、「記者が書いた内容に重みのある情報」を発信するという方向がより大きな意味を持つと考えている(この部分は以前書いた。そして邦字新聞が今回の社説同様、漠然とした日本人を仮想敵としているのも既述の通り)。その様な視点から、理由はどうあれ全国的な即日配達システムや紙面の一部カラー化などを導入して、結果的にではあっても報道のためのインフラを整えてきたサンパウロ新聞を評価してきたつもりだ。

 「私の言葉に、なぜか耳を傾けようとしない、または無感覚とさえ思える多くの日本人、一体、崇高なる感性と精神を理解し、それを尊重することを生き甲斐とする人々はどこへ行ったのか、その疑問は頭を離れない」(ママ)という同社専務取締役の愁嘆は、映画とはまた違った感動を与えてくれる。

 「崇高なる感性と精神を理解し、尊重する人たち」は、インターネットという情報の海を、最前線から発せられ、かつ最も信頼に足る最高・最速の報道を求めてナビゲートしている。もちろん、様々な言語で。そして彼らは、自分とは異なる価値観を持つ人たちが発するメッセージを尊重し、その生き様にも共感しているはずだ。耳を傾けなければならないのは、映画の中の帝だけではない、と思う。奇しくも、専務取締役のあだ名は「女帝」だったな。

 もっとも、失望するのはまだ早い。

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