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特集 在外選挙権獲得運動の20年 (1)

2002年5月10日

サンパウロ在住 美代賢志

 1997年、与野党が共同で公職選挙法改正案を議員立法として国会に提出。1998年4月、成立した。

 これで比例代表制のみとはいえ海外に住む日本人が、国政選挙の投票に参加できるようになった。この背後には、ブラジルの移民、とりわけブラジル日本都道府県人会連合会(以下、県連)を中心とした長年の活動があった。この間、在外邦人に移住者(海外定住者)を除外するという動きも国会で見られたものの、最終的にはすべての在外邦人を含む形で上記の通り成立する。1982年に始まった県連の組織的な運動開始から数えて20年。在外選挙権獲得運動を通して移民が訴えたかったものは何だったのか。移民の視点から、この運動を振り返ってみたい。

 県連が在外選挙問題に関して日本に対する運動を開始したのは1982年、第4代の藤井卓治会長(故人)時代にさかのぼる。

 県連傘下の47都道府県(京都クラブは県連に加盟していない)が、当時の薮忠綱サンパウロ総領事と日本に働きかけた。その結果、議員立法として衆議院で問われることになる。しかしこの議員立法は、84年の中曽根内閣解散により、審議未了で見送りとなり、そのまま葬られてしまった。当時から、在外選挙に積極的な議員もいるにはいた。それでも「審議未了で見送り(廃案)」という表現が、つまり検討すらせずに葬り去られたという事実が、当時のブラジル日系社会に与えた影響は大きかった。在外選挙権獲得運動家をはじめとして日系人社会全体に悲観的意見が広まったのである。

 この流れを再び変えようとしたのが1992年、第7代会長に就任した中西忠勇氏である。中西会長は、在外選挙権獲得運動に県連が最優先で取り組むことを県連理事会、続いて県連総会において諮り、承認を得る。その背景となったのは、移民1世の高齢化による医療福祉の問題、ブラジルにおける子弟の日本語教育問題、また当時、増加の一途をたどっていた日本への出稼ぎ就労者問題において、当事者でもあった移民1世に発言権が必要ではないか、そのような考えである。そしてその移民1世を中心に運営されている最大の団体が当時、県連であった。

 そこにはもうひとつの、しかし運動の底流をなす理由があった。その理由はあるいは、思想と呼べるかもしれない。

 在外選挙権獲得運動の、そもそもの端緒となったのは1965年、サンパウロ市で開催された第1回南米日系人大会(後の汎米日系人大会)である。ペルーとアルゼンチン、メキシコ、そして地元ブラジルの日系人が集ったこの大会で、在外選挙に対する提案が行われている。

 海外に住んでいる、いないにかかわらず、新憲法は14条で国政への参加を保障している。さらに第22条で日本人が海外に住む自由を認めている。しかし一方、公職選挙法では日本の都道府県に3ヶ月以上滞在し、選管の選挙人登録簿に登録されている必要があるとしている。つまり公職選挙法は国民の権利を毀損しているという見解を移民たちは、大会に出席していた田中龍夫文部大臣(当時)と田原春次代議士に訴えたのである。この背景をなすのは、「移民は日本の国民として認められているのか」ということである。

 日露戦時下に石川県で生まれた中西会長は第2次大戦まで毎年、国民の3大義務のひとつ「兵役の義務」を免除してもらうために領事館へ出頭した経験がある。徴兵延期願いを国許の連隊区へ提出するのだ。当時は、徴兵されたとして日本へ帰るにも、50日前後を要した。もちろん、帰ることなど日数の問題だけでなく、日本政府の経済状況からかんがみても到底、不可能な時代であった。しかしその「恒例の出頭」から彼が得たものは、ブラジルにあっても日本政府から義務と権利が認められているという、大日本帝国臣民としての自覚と誇りであった。

 中西会長は後の97年2月、県連創立30周年記念誌に「今一度選挙欧米並の権利を与えよ」と題した寄稿を行っている。その一文は、次のように結ばれている。「鮭は生まれた河川から大洋に出て成長し、もとの河川に帰る。帰省心のしからしめるものだが、壮なる可なと言いたい。移民といえどもその心情は鮭以下ではなく、事情有って帰れないだけで日本国民なのである。昔式に言うなら大日本帝国臣民なのである。速やかなる善処を期待して止まないのである」

 国民の権利、そして日本人としてのアイデンティティー。このふたつをまとめたのが、94年に中西会長の後任として就任した網野弥太郎会長である。戦後移民である網野会長は、コチア青年連絡協議会(戦後移民の団体)、ブラジル工業移住者協会、ブラジル力行会、東京農大会などに諮り、県連を中心とした日系人社会共通の運動に発展させることに奔走する。また署名運動も展開してゆく。95年、網野会長は東京で開催された海外日系人大会で、新進党選出の石井一議員や寺沢芳夫経済企画庁長官(当時)らにブラジルで集まった署名を手渡している。署名運動はその後も続けられ、合計7500人に達した。

 海外日系人大会における県連の動きは、各国の日系人に大きな影響を与えた。95年以降、まずロサンゼルスが、続いてシドニーから同調の声が上がる。96年中には、ヨーロッパやアジア地域が続き、全世界的な運動に発展する。これがまとまり、「海外有権者ネットワーク」が組織された。同ネットワークはさらに、憲法に反して選挙権が剥奪されているという人権救済を日弁連に訴えるとともに、衆参の両院議長と選管に対して要望書を提出した。

 日弁連は、比例代表制と小選挙区制のふたつに対して、議員立法の形で公職選挙法第9条と22条の改正を迫る。96年には、ブラジル県連を除いた海外有権者ネットワークは、在住者への制限は憲法違反であるとして、東京地裁に提訴している。

 この提訴に県連が参加しなかったことについて県連の網野元会長は、「理事会で、提訴というのは穏やかではないという意見が大勢を占めたため」と説明する。ブラジルにおける在外選挙権獲得運動が単なる権利の要求だけではなく、国を想う日本人としてのアイデンティティー獲得運動でもあったことを裏付けるエピソードである。

 そして冒頭の通り、公職選挙法が改正された。これを受けて1999年5月から、在外公館を通じて在外邦人の選挙人登録が行われ、2000年5月以降、比例代表制のみではあるが、在外邦人の国政参加への道が開かれた。そしてそれはまた、移民が日本人としてのアイデンティティーを取り戻すための、一里塚となったのである。

 スザノ市在住の寺尾芳子さんは次の句で、岐阜県知事賞を受賞している。

棄民かと 嘆きし父の仏壇に 在外選挙の登録証を供う

つづく

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