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悩み(1)

2003年9月15日

サンパウロ在住 美代賢志

 「私は日本語だけで子供と接した」という先輩の日本人移民がいる。大切なのは子供に日本語を強制することではなく、日本語に興味を持つ環境を整えることだという。このあたりは、私の考えと少し似ている。もっとも私自身は、子供と日本語で会話するというのは、とっくの昔に選択肢としては捨てているのであるが…。

 さて、その人との話で面白いなと思ったのは、「孫には日本の名前をつけるようにとだけは言っている。そして息子から孫にも、そのように伝えるように言ってある。そうすれば、もともとは日本移民という自分のルーツを知ることができるからだ」という話。

 私は全く別の取り組みながら、日本移民のルーツというものを残そうと考えている。私の場合は、映像。

 アジェのパリに限らず、私は古い町並みや風俗の写真を眺めるのが好きだ。サンパウロのメインストリート「パウリスタ大通り」に大邸宅が並び、路面電車が往来する写真など、往時の風俗や空気が、手に取るように伝わってくる。この山頂が切り開かれる前は、どのようなものだったのだろうか…。そのジオラマがイピランガの博物館にあるそうで、もうかれこれ1年近く、行ってみたい思いに駆られている。

 もちろん、そのような大時代を感じさせる写真でなくとも、個人レベルだけの貴重な風景がある。

 私の生まれ育った大阪の街は、すっかり当時の雰囲気を留めないほど変わってしまった。当時は全く心を動かされることなく過ごした田畑は、すでに新興住宅地に変貌。すでに思い出の中だけの風景となった。たった1枚の写真でも、もとの風景を写したものがあれば、私にとっては非常に貴重なものとなる。が、当時はあたりまえだったそのような風景を写した写真は、手元にはない。そして今さら、撮影することもできない。

 私が始めてカメラというものを意識したのは、高校生の頃だったろうか。父親が購入したカメラを借りて、最初は近所の山をブラブラ撮影したのだが、どうもフィルム枚数を持て余す。当時は知らなかったが、ハーフサイズということで通常の倍、72枚も撮影できたのである。それでも早く現像を見たい。何とかフィルムを終わらせなければ、ということで当時は空き家となっていた家に忍び込んだ。そこはかつて、友人が住んでいた家。玄関や庭、勝手口など、何となしにいろいろ撮影して現像に出した。

 私の写真の出来上がりを品評するつもりでいた母親は、その大量の廃屋の写真を見てひどく落胆したようだった。当たり前だが、何の価値もない写真。といっても捨てるのももったいないということで、友人宅に母親が手紙とともに郵送した。その写真で何年かぶりに交流が再開したのだが友人一家は、写真を見ながら懐かしさに「全員がわんわん泣いた」(友人の母親談)そうである。その家を後にしてすでに7、8年が経過、その間に住人が入れ替わったりしたものの、庭や勝手口の石積みなどは、まったく往時の姿を留めていたそうだ。

 これは、その人にしか意味を持たないながらも、貴重な映像のメッセージだったといえるだろう。

 私自身は、こうした単純に私自身が将来懐かしむだけの写真と、私の子供たちの来た道として残したい写真の2種類がある。もちろん、個人的に楽しむ映像であっても、後世、貴重な映像になりえる可能性はある。それは、先のパウリスタ大通りの風俗写真同様である。当時の何気ない生活が、我々の好奇心を刺激する。映像というものをそうして長期的な視点で考えた時、私の心の中には、大きな悩みがムクムクと膨れ上がってくるのだ。

 それは突き詰めれば、映像をどのような形で残すのか、ということ。大別すれば、銀塩のアナログデータなのかデジタル写真のデジタルデータなのかということ。さらにフィルムならネガなのかポジなのか。デジタルで言えば、どの媒体に記録しておくのか、ということである。

つづく

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