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翻訳を楽しむ心

2003年2月3 日

サンパウロ在住 美代賢志

 翻訳に絶望的になる時がある。

 例えば、「イパネマの娘」はしばらく気になっていたのだが、出だしをどのように日本語訳するのか、ずっと悩んでいた。「 coisa mais linda 」というのは直訳すると、「より美しいもの」という意味だが、ブラジル人の間では「若い女性」を意味することが多い。だから、「とても美しい女性」と訳してもおかしくはない。実際、多くの翻訳者が女性(あるいは少女)と訳している。

 ところが、その後に「Mais cheia de graça, É ela, menina, que vem e que passa,」と続くのだから、困るのである。つまり、「愛嬌に満ち溢れているそれは、女性、その少女が来て、通り過ぎている」と続いているのだ。結果として、最初から女性と言っては原文の味が出てこない。しかし、若い女性であることをも暗示している。「美しいもの」では、その暗示部分が欠落する。

 これは、「何気なく窓の外を見れば、若い女性が、それも美しい娘が歩いてくるじゃないの!」という、作詞の情景そのままである。原文からは、ふと目をやった光景に主人公がときめいてゆく様子が目に浮かぶ。その視点と心の動きが、表現されている。

 そこで、これをあえて訳すとすれば、「美しい人」であろうか。なぜなら一般的日本人が、「美しい人」と聞いて男性を想像する確率は、かなり低いはずだから。

 もうひとつ、これは現在のところ確信がないのだが、「Caminho do mar」というところ。「A caminho do mar」なら「海に向かって」という意味になり、何となく情景にもピッタリくる。しかし、そのまま「海辺を歩く」という解釈がブラジル人の間でも一般的(私のブラ妻を含む)。さて、この曲が生み出されたされたレストランから、海が見えるのだろうか? そんな疑問を抱いたのも、現在の一般的な海沿いのレストランから、海沿いの道を歩く人を眺めるというのは、ちょっと距離がありすぎる気がするからだ。だいたい、距離が離れていれば、作詞してしまうほど「時めく」こともありえないと思う。ということで作詞された状況(レストランの位置)が分かれば、すべてが解決する。(※ この件に関してアップデート即日、WillieさんとHiroquinhoさんから、レストランに関する貴重なご意見をいただきました。ありがとうございました。そして事実、直感どおり海辺に面してはいませんでした)

 さらに、後半に出てくるMundoも、「世界」なのか「人々」なのか良く分からない。通り過ぎて「世界」が微笑むというのは、詩的表現であってもちょっと変だ。何しろ、それまでずっと写実的な描写が続いているのである。では、人々だろうか。でも、彼女が通り過ぎて人々が微笑み、愛によって人々が美しくなるというのも、やっぱり変な気がする。ナンだか、売春婦って感じ。

 これは、「世界」と「人々」の両方の意味を使っていると見るほうが自然。「世界と人々って、ぜんぜん違う意味じゃないの!」とおっしゃる方もいるだろう。しかしブラジル人の思考回路では、「ひとつの単語、mundoに集約されている」のである。

 「ポルトガルの海」もそうで、該当ページにも書いたが、最後の1行を「空(そら)」と訳すと原文の味がでてこない。かといって、「大空のような無限の可能性」と訳すと、行きすぎという気もする。何より、2行ごとに韻を踏んで歯切れ良く展開するこの詩を、同様に韻を踏んで訳すなど、(少なくとも私の詩的才能では)無理である。翻訳本では原文の味を再現しているかもしれないが。

 つまり(少なくとも私の)翻訳文の味というのは、どこまで行っても原文の味とは似ても似付かぬもの。それはまるで、緑茶が紅茶という別の味になったようなもの。そこで当サイトの翻訳は、「原文を読む手がかり、あるいは原文を味わうきっかけ」になることを目的としたい。それは、産地の空気を運んでくれるフルーツのようなものか。

 これによって読者が、ポルトガル語の原文を楽しんでいただければ幸いです。

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